Marginal man
↓正彦
「うるさいって言ってんの」
「…由美子」
「ねぇ、出てってよ」
ハヤク、ハヤクミンナデテッテ
彼女の双眸は僕と里見先輩を最初から最後まで睨んだままだった。拒絶と苛立ちを見事に表現している。父親には視線を遣ろうともしないで、由美子ちゃんは口返事を繰り返した。僕はただ綺麗な目をしているな、と思った。
里見先輩が僕の腕時計を覗き見る。目があった。アイコンタクトで、嫌な女。
「じゃ、俺は失礼しますよ」
里見先輩は朗らかに由美子ちゃんに笑いかけて言った。めは全く笑っていないのだけれど。二人は睨み合ったかと思ったら直ぐに顔を逸らした。
里見先輩は軽やかに足音を鳴らして病室を出ていった。部屋には先輩の服に染み付いたヤニ臭い臭いだけが残った。
「何アレ感じ悪」
「由美子!!」
「あの、僕もそろそろ失礼します。お大事に」
「あ、ああ…悪いな」
「サヨウナラ、みずきさん」
僕にヒラヒラ手を振ってから、由美子ちゃんは布団に潜り込んだ。僕は軽く頭を下げて病室を後にした。廊下を曲がろうとした所で、何かの割れる音と由美子ちゃんのお父さんの罵声が聞こえた。
似たもの親子
「嫌な女」
コーヒーをひとくち口にふくんで里見先輩はけらけら笑った。なんでこの人の笑い方はここまで嘘臭いんだ。僕は先輩の隣に腰をおろす。安っぽい所々ペンキの剥げたベンチ。
「さっきそれ聞きましたよ」
「アレ?俺言ったっけ?」
「言いました」
ならあの女にも聞こえてたな。
心底嬉しそうな笑みを里見先輩は浮かべてから、残りのコーヒーを一気に喉に流し込んだ。人を馬鹿にするのの天才は頭が良すぎてしばしば僕はイライラすることになる。そのうち自滅しますよ。
「みずき、あれ見ろよ」
何かを思い出したように里見先輩は四階の窓を指差した。場所的にあの部屋は由美子ちゃんの病室だ。僕は目をこらす。かろうじて、紫の点がみえた。
「何ですか?」
「シクラメン。それも鉢のな」
僕は里見先輩を一瞥する。相変わらず表情の読めない里見先輩の顔。絵本を朗読する車椅子の女の子の声がふいに耳に入ってきた。
「前にあのこと同い年くらいのこが来たんだよ」
線の細い色白の、中学生。里見先輩は空を見ながら言った。本当にそんなこが来たかどうかは僕にはわからない。
「で、置いていった」
「…縁起でもない」
「そうだな」
そんなこと微塵も思っていないことは明らかで、大口開けて里見先輩は欠伸を一つした。嫌な性格をしている、と僕は思った。
「なんで知ってるんですか」
「俺は何も知らないよ?」
* * *↓浅葱
「由美子ちゃん。昨日、亡くなったそうですよ。」
里見先輩は無関心にあさっての方向を見つめている。
聞いているのだろうか?
「白血病だそうです。お父さん、必死で治療してたのに。」
「あの反抗期の娘と気違いの父親が?あーあ、どうしようもない喜劇だな。」
独り言だろうか。先輩はあさってのままだ。
「気違いって何ですか。あの人、由美子ちゃんのために夜もろくに寝ないで診てたんですよ。」
「そりゃ、誰かに気付かれたらおしまいだからな。」
会話…、をしてくれているのだろうか?先輩はタバコに火をつけている。
「あの…、きちんと説明してくれませんか?」
里見先輩はニコリと笑ってる。これはイラついているときの里見先輩だ。
「ねぇ、みずき。どう思う?娘の為に力を尽くす父親は。」
「そりゃ、いい話だと思います。情が深いというか…。」
特に考えずに口にした言葉だった。先輩は眉をしかめて、口を吊り上げる。これは『よろしい』の里見先輩。
「そう。だから父親は娘を白血病にしたんだ。」
無表情の里見先輩。何の先輩だ?
「どういうことですか…。」
何かを知って黙っている先輩は悪魔だ。
「ねぇ、みずき。白血病っていうのはどういう病気だ?」
感動モノのドラマでよく使われる題材だ。
「たしか血液中の白血球の数が異常に増えるとか?」
「それじゃあ、ただの潔癖人間。」
白血病とは、先輩は続ける。
「骨髄の造血作用の異常で、抗体機能を持たない白血球が大量に生成される病気だ。そして未熟な白血球はウイルスを殺せない。だから骨髄移植が必要になるんだ。」
「じゃあ由美子ちゃんのお父さんは由美子ちゃんに白血病の骨髄を移植したってことですか?」
はは…と先輩は笑う。苦笑だろうか。
「そんなもの、さすがに入手困難過ぎるぞ。」
「仮説として聞いているだけです。まだ先輩を信じるとは言ってません。」
フッという風に先輩は笑う。先輩は自分の仮説を信じない人の存在を望んでる。
「お好きに。
じゃあ続きだ。現実的に故意に白血病にするのは困難だ。
だからあの親父は見せ掛けることにしたんだ。」
ねぇ、みずき。先輩は言う。
「あの親父は外科部長だったね?」
僕は頷く。見せ掛ける事なんて可能だろうか?
僕の心を読み取って先輩は続ける。
「見せ掛ける事も困難だ。ただ、知識と権力。それに今後の人生を使えば無理なこともない。」
僕はただ頷く。疑問が多すぎて口を挟む余裕がないからだ。
「先ずは知識、親父は娘に副腎皮質ホルモンを投与したんだ。」
「…ふく?」
なにそれ?
「副腎皮質ホルモン。発疹とかに使う薬だ。
発疹ていうのはね、抗体が過剰に反応してしまう事だね。そして副腎皮質ホルモンは抗体反応を抑える薬だ。弱められた抗体でもウイルスは殺せない。だから?」
一見したところで二つに大きな差は見られない。結論だけは同じだから。ただし素人目に見ての話だ。
「証拠はあるんですか?」
「前に、ちょっと調べてもらったんだ。知り合いに。」
先輩は顔が広い。そんなことよりも・・・。
「病院ですよ?」
「そうさ。そこで権力が必要なんだ。隠す方法無い訳じゃ無いだろ?小学生でも試みる方法だよ?
人の目に触れさせなきゃいい。」
君が言ったんだろ?
『夜もろくに寝ないで診てたんですよ。』
「な?後は検査結果とかカルテとかは書き換えればいい。付きっきりで文句のある人もいただろうけど、そこら辺は権力者だからね。
それに人は情があるからね。いい父親としてたいていの人は目をつむってくれたさ。
知ってる人は金と権力で抑えればいい。」
「そんな事で、隠せるもんなんですか?」
先輩はタバコを揉み消す。
「もちろん長くは無理だ。
ただ娘が死ぬまでで、よかったんだ。あの親父は娘が全てだったから。」
地位と名誉わふいにして、何をしたかったのか。
「…わかりません。」
眉間にシワがよるのを感じる。
こんなとき必ず先輩はこっちを見て微笑む。最高に優しい笑顔で。それを見ると怖くなる。先輩がヒトに見えない。
「あの親父は、娘が自分から離れるのを1番恐れてたんだ。ただの反抗期さえも世界の終わりだったんじゃないかな。」
先輩はまたタバコに火を点ける。
「だから親父は娘がまた自分を愛する様にしたんだ。寝ずの看病はここでも意味を発揮するよね。」
でもなぜ?
「っでも、殺さなくたって!十分じゃないですか。もう一度愛してくれるなら。」
先輩が肩に手を置く。その重みが――。
「彼は、怖じけづいたんだ。また来るかもしれない反抗期と、いつか来るであろう親離れに。」
そして、
先輩はタバコの煙を輪にする。
「奪われる前に、壊そうとした。」
そうして彼は時を止めようとしたんだ。
先輩の輪は、一瞬漂って、
そして消えた。